もったいない
日本にはもったいないという文化がある。モノの価値を無視しないようまだ使えるのではと考えるとても素晴らしい文化だ。
日本人はモノだけでなく、森羅万象、目に見えないものにも、この文化/考えを適用している。
たとえば、自分自身の(もしくは他人のでさえ)人格や風評を含めて、今まで築き上げてきたものが崩れようとすると「もったいない」と感じる。
この考えが抑止力になって、悪いことをしない社会というのが成り立っている部分もあるかと思う。
では「もったいなくない」状態とはどんな状態なんだろうか。
モノの場合は使用/利用できなくなった状態。いわゆる完全に壊れて修理ができない状態とか使い切った状態。
では人格(つまりは人)は?
これは日本人のあまりよくない考えなんだと、勝手に思っているのだけど、一度でも、ちょっとでも崩してしまうと、「もったいない」という状態ではなくなってしまうようだ。
例えば「いい子」で通してきた子が、一度でも、それがやんごとなき理由からでも、なにか過ちを犯してしまったら、自分のなかで大切にしてきた分、喪失感を味わうか、他人からいわゆるレッテルを張られてしまい、もう「いい子」ではいられなくなってしまう。
そして、自暴自棄的な考えから、「もったいなくない」状態になってしまう。
また、あまりにも「もったいない」という意識が強いので、「もったいなくない」状態との温度差が大きい。あんなに大事にしてきたのに、一度諦めてしまうと、いきなりひどい扱いになったりする。
いやいや、裏切られた!とか、そういう次元で考えちゃだめだ。完璧な人間なんていないとわかりきっているんだから、悪いところだけに注視してはいけないはずだ。
つまり自分が思うところは、人に対してともっともっと「もったいない」と大事に思った方が、再チャレンジのできるよい社会になるのでは、ということです。
「あきらめたらそこで試合終了だよ」
と言われた三井君は、バスケを一度やめているけど「一度くらい諦めても、もう一度這いあがれる」ことをも体現したのだと思う。もちろん一度諦めた分、苦労はするんだけど。
多少傷ついていても、過去に失敗していても、それ以外の部分を見てあげよう。
そこでよい部分があるのであれば、もう少しもったいながってもいいんじゃないだろうか。自分を大切に、という言葉は、決して傷のない真っ白な自分であるための戒めではなく、1度や2度の汚れがあったとしても、自分を「もったいない」と感じなさいという意味なんだと思う。
最後に、匿名性の高い場所などをみていると、自分が傷つかないで行動できてしまうのならば、比較的善悪の判断なしに思い切った行動ができてしまうのではないだろうか。
でも傷つかない場所なんかない。自分の心は自分でよくわかっているとおり、「もったいなくない」状態になっているはずです。?