完璧
自分の中では完璧なんてありえないと思っている。
自分的に完璧な資料ができた、と思っていても他の人から見たら、粗が存在するかもしれない。
例えば完璧だと思っている資料をレビューして貰おう。
レビュアー「例に書いてあるケースの場合はわかったけど、違うケースの場合はどうなんだ?」
レビューイ「はじめに記載した通りスコープの対象外なので、そのケースについてはそもそも記載していません」
レビュアー「誰が読んでもわかりやすいように、具体例としてそのケースは対象外と明記しておこう」
この例から言いたいのは、はじめにスコープの対象外と記載することで説明できていると思っている人と具体的なケースを記載しないとわかりにくいと思っている人で資料の記述レベルが変わってくるということと、おそらくどちらも正しいことを言っているということ。
正しさについては、”時”と”場合”や”背景”によっても変わってしまうし、そもそもレビューのテクニックやレビューイとの信頼関係によって、この指摘があったりなかったりもする。
いやいや、そんなことを言っているより完璧な資料を目指すのであれば、そして時間があるのであれば、もしかしたらすべて(の例)を列挙するのか正しいのかもしれない。
すべてのケースを、例を、例外を、考えながら列挙する。
アウトライナーを使いながら、もしくはマインドマップやロジックツリーを描きながら、MECEを意識しながら。なかなか大変な作業ですが必要な作業でもあります。
それらを用いて、考え抜いてできた資料でも完璧かどうかは別の話。
(アウトライナー的には、列挙はしていても結果的に隠してしまえば、自分以外にはなかなかその検討の軌跡は感じ取ってもらえないですし、検討結果を隠す隠さないは感覚にも頼ってしまうこともあります)
「多面的な視点を持って、他に検討する余地がないがないか考えてみよう」とか自分でも偉そうによく言ってはいるけど、人間一人では想像できる範囲は限られている。だからこそ他の人にチェック(レビュー)してもらうのです。
自分の中では完璧なんてありえないと思っている。
でも自分の中で完璧な資料だったら作れるかもしれない。
資料に目的に沿って、自分では一通り検討尽くしたと思える資料。
それでも自分が検討していないような新しい視点で指摘が来たら、その指摘をありがたく頂戴し、レビュアーを尊敬します。
ただし、その資料の本質ではない別の課題について指摘されたときや、もしくはそもそもその指摘が重要ではないことをレビュアーもわかっていながらも指摘を受けたとき。
そういった時に軽く受け流さずにいちいち丁寧に反応してしまう自分も青いのですが、ちょっとモヤモヤします。
そんな時に完璧な資料を目指さずに、”遊び”の部分がある資料の方が労力的にもレビュアーへのウケ的にも良いのではと思ってしまったりします。
自分の中では完璧な資料は、レビュアーがどんな”人”なのか想定できていて、ほんの少し議論の余地がある資料なのかもしれません。
自分の中では完璧なんてありえないと思っている。
それはただの心構えであり、逃げの言葉として使わないようにする。
やると決めた場合には、100%を目指す。出来上がるのが99%だったとしても。