第37回和光市民ロードレースフェスティバル

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和光ロードレース

その男は気合が入っていた。

別の言い方をすると、出来ることが、気合を入れることしかなかった。

毎年、男は10kmのロードレース大会を2〜3レース出場しているが、3月に開催される和光市民ロードレースフェスティバルがシーズン最後のレースになることが多い。今回も2018年度シーズン最後のレースになった。

今シーズンの仕上げとなるので、身体的には一番出来上がっているはずである。しかし男の身体はだらしなく、余分な肉を纏っている状態であった。

それもそのはず、2月の月間走行距離は50kmにも満たなかったのだ。なんだかんだ言って平均して週10km程度を走っている男にとっては、1月2月は怠惰な生活を送ってきたことに間違いはない。

甘いものを食べすぎる傾向にもあった。食後にデザートを食べないとイライラしてしまう。冬のバニラアイスはとても甘美である。そして頭を使った後のおやつチョコはもはや1日4回目の主食である。

今年から始めようと思っていた筋トレも続いていない。初日に筋肉痛が出て以来、やるタイミングを逃してしまったままだ。

でも、花粉症以外の体調は良い。週5km程度でも全く走っていないわけでもない。10kmなら、気合で走れる。

男は、毎回レースに出場するたびに練習不足を痛感しているが、練習量はあまり増えない。なのでタイムも伸びない。練習不足だからとレース途中で苦しさに向き合えずペースを落としてしまうからだ。

今回は練習不足という条件は同じだが、苦しさと向き合い、それに耐えてタイムを縮めようという考えているのだ。つまり気合だけでなんとかしようという作戦とも呼べない作戦である。

レース直前、男は久しぶりに緊張を覚えた。実生活ではほとんど感じない感覚だ。練習していないくせに一人前に緊張するなんてと男は自嘲した。

スタートの号令とともに、一斉にランナー達が公道へ飛び出していく。和光市のレースは樹林公園周辺の道路を封鎖してロードレース大会を開いてくれる。駅から少し距離があるが、市役所の駐車場も無料で利用できて小さいながらもよく行き届いた大会で男はこのレースが結構好みであった。

コースも公園内のランニングコースを走ったり、アップダウンが少なく給水所もあったりして、とても走りやすい。男にとって10kmのベストタイムを出したことのある、というのもお気に入りの理由だ。

男は序盤から積極的に飛ばしていった。最近の男にはオーバーペースとも言えるペースだ。心拍数も一気に上がる。

良いペースで走っている黒いTシャツの人を見つけて、その人について行こうと考えていた。できれば自分よりも実力が上の人がいい。そういった意味ではなかなか良い人を見つけることができた。黒Tシャツはかなりきついペースメーカーだ。

レースの1/5、2km地点までは男も自信を持って走ることができていた。しかしちょっとした登り坂やカーブのたびにペースメーカーから離され、それに追いつくのがきつくなってきている。すでに心拍数は190を超えている。

このまま頑張れる。気合は充分だ。でも足はこれ以上速く動いてくれない。「まだ3km地点だぞ、これ以上無理したら完走も出来ないかもしれない」といういつもの言い訳を男は必死で振り払った。

そんな時にペースメーカーにしていた人が、少し、ほんの少しだけペースを上げたような気がした。

和光市のレースは、5kmの周回コースを2周することで10kmとなる。正直に言えばまだ半分も走っていないこの地点でこれ以上の苦しみには流石に耐えられない。

男は、少し、ほんの少しだけペースを落とした。

そこからはズタボロであった。ペースを落としたのに心拍数は落ちず、ランニングフォームは乱れ、ドタバタと非効率な走り方になっているのが自分でもわかる。もちろん黒Tシャツはそれっきり二度と背中を拝むことはできなかった。

2周目に入り、気合だけは負けないという気持ちを思い出し、苦しさと向き合った。苦しいけど半分は終わったのだ。

そんな時に男と同じようにドタバタとカッコ悪いフォームで、ゼイゼイと大きな息づかいをしている青いTシャツの人に抜かされた。明らかに男よりも年上で、そして苦しそうだ。

男は青Tシャツの後ろにピタリとついた。正直、走っている姿を見ているだけでこちらまで苦しくなるような人なのでペースメーカーには不向きだ。しかし、負けたくないと思えたのだ。

7kmくらいだろうか、給水所にて水をとる。口に含む程度にしようとするが、ほとんどを自分のTシャツにかけてしまう。でも少し気分転換にはなった。青Tシャツも水を取得して飲んでいるため少しペースダウンしている。

ふとランニングウォッチを見ると想定ペースよりは遅い。心が折れそうになる。このペースでは頑張っても無駄であると思いそうになる。男は本来苦しみに弱いのだ。

スタート時の気合を必死で思い出す。落ちたペースを取り戻しキープする。青Tシャツを抜かす。気づけは男の方が大きな息づかいをしている。もうランニングウォッチを見る余裕すらない。

しかし男はスーパーマンではない。気合は長くは続かない。8km地点では残り2kmだと思うよりも、まだ2kmもあるのかという絶望の方が大きい。でもペースは落とさないように身体に鞭を入れる。本当はペースが落ちているかもしれない。心拍数は200を超えているかもしれない。男は悪い思考を必死で振り払い、ゴール後の日帰り温泉を想像する。

樹林公園内のクッションの効いた走りやすい筈のアスファルトも、男にとっては長いいばらの道に思える。あと少し残り1km程度だ、と必死に足を動かす。腕を振る。大きく息を吸う、吐く。走る。がむしゃらに走る。

男のすぐ後ろに、抜かしたはずの青Tシャツが死にそうなくらいの息づかいで迫ってきている。男はびっくりした。男の全力を持ってしても、この自分より苦しそうな青Tシャツを引き離すこともできないのか。

でも、今回は、男の心はなんとか折れなかった。最後まで青Tシャツの2〜3歩前を走りきれた。ゴール直前はお互いラストスパートをかけたが、お互いあまりペースは上がらなかった。それでも全力を出しきれた感触を確かに感じた。男は青Tシャツの人に握手をしたい気分だったが、軽く会釈をするふりをする程度で、すぐに地べたに座り込んで心臓が落ち着くのを待った。心拍数は200を超えていた。

結果的には男のベストタイムには遠く及ばなかったが、ここ1年間の中では良いタイムが出せた。満足のいく結果だったが、これ以上のタイムは望めないこともわかってしまった。もちろん練習すればタイムは上がるはずだが、自分の現時点の全力がベストタイムより結構低いというのは男にとってはショックだった。

男は日帰り温泉の露天風呂で足を伸ばすと、黒Tシャツの人に最後までついていけばよかったなどと思い始めて苦笑した。そんなことは不可能なのだ。本来青Tシャツの人がいなければ、今日のタイムすら出せていたか怪しいのだから。そして気合というのは、全力を出し切れるかどうかだけに関わってくるという当たり前のことが身にしみた。

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